ハトと歓声と美大生

美大生らしくない一般人の日常をつらつらと書く

5.五月の桜と美大生

5月の半ばになった。殆ど散ってしまった桜を見ると、入学式がもう遠くのように感じる。

授業にも慣れ、サークルにも入った。僕は大学生を実感することなく、勝手に大学生になっていた。

友達もできた。僕が口下手でこんな陰気なブログを書いていても友達はできるとわかった。

友達は色々な意味で美大生らしくない人で、運動ばっかりしている。そして楽しい人だ。

 

うん。学校は楽しい。入学前に感じていた劣等感や他人へのジェラシーは尽きることはないが、しかしそれでもマシになった。空を見ることが多くなったし、ご飯もおいしい。どこか余裕ができるようになったせいだろうか。

ただ、日々を漫然と過ごしている。食べて、描いて、喋って、寝る。こんな簡略化できるような生活を続けている。1日の密度は濃い。それは間違いないし、なんとなくぼんやりとした不安は前よりも少ない。

ただ、どこか受動的に生きているような気がしてならない。美大生という立場にある僕は、アートフェアや出店の機会に恵まれているし、実際それに申し込んだりしている。一見それは活動的に見えるだろうけど、そうではない。

美大生というか、アートを学んでいるというか、そういう概念に囚われているせいで、○○していれば○○らしくなるという固定概念が付きまとい、身動きがとれない。春と夏の間の生ぬるい空気が体に絡みついて離れないように、自分は概念や雰囲気、空気になんとなく流されて生きてしまっている。

明確な目標はない。自分はこんな人間だ、だからこういうところを誇れる、ということもできない。なんとなく美大生になってしまったし、なんとなく日々を生きている。

なんとなく大人になろうとして、デザインを学ぼうとして毎日を過ごしている。

 

桜はもうとっくの昔に散ってしまった。僕はそれをなんとなく意識しながら、日々を過ごしてきた。

 

この文は悩みだ。常になんとなく抱える悩みをどこかにアウトプットしないと自分の言葉にはならない。悩みは常に付きまとう。しかしそれを言葉にすることも、それどころか見つけることも難しい。

悩みは文章に落とした時、水分の多い絵の具のようになる。赤色を混ぜて、水色を混ぜて、白を混ぜる。だんだんとマーブル状になって、ぐるぐると渦を巻いていく。

言葉にしなくてもいい時もある。しかし言葉にしないといけない時もある。

この文は自己確認だ。今の自分を書きなぐっている。

だから、だからまとまりもない。それは悩みも、自分自身もなんとなくで構成されているからだ。自分自身や悩みを言葉で綺麗に表現できるのであれば、もっと簡単に生きられるはずだ。

逆に、まとまりがなくてもいい。駄文でいい。

5月に入って、僕は少し考え方が変わった。

完璧な文字の羅列に憧れながらも、配列がガタガタだったり誤字をしていたりするのが人間だからだ。

どの人間も、文章も完璧なんてない。なら、完璧でないことを誇ろう。不定期に、可変で、グニャグニャと変化する柔軟性と感受性を誇ろう。

明日には違う自分が存在しているかもしれない。それは今よりもダメかもしれない。しかしそれは確かな変化だ。急速な変化を求めないでいい。桜は散ってしまったが、まだ、地面に落ちている花びらは色褪せない。

 

悩みが絶えることはない。しかし絶えないことはない。また新たに悩みが増え、悩みが消えていくその可変を喜ぼう。僕は変われる。

 

そして1人でも、自分を信じてくれる人が、変わらずに愛してくれるひとがいればそれだけでいい。恋人でもいいし、家族でも友達でもいい。それは何よりの励みだ。自分が失いそうになって、新しい悩みに打ちのめされて、何が何かわからなくなった時、それでも笑ってくれるひとが、きっといるのだ。

人気はそういうことかもしれない。大勢の人に好かれることは、確かに人気ととってもいい。ただ、絶えることなく、変わることがない揺るぎないものが、変わってしまう人間と人間のあいだにあるならば、それは人気と言えるのかもしれない。

 

僕は五月の半ば、1人でソファに寝転んでこんな感情や悩みや自己確認を文にして表している。それはきっと貴重な時間なのだ。

 

人は1人でいるとき成長できる。

 

このような言葉がある。自分を言葉にする時間は1人の時でないとできない。

漫然と過ごしている日々に、僕は絶望しているわけではない。しかし突き動かされる何かが到来する瞬間を、圧倒される瞬間を僕は待ち望んでいる。

 

遠くの方で車の音が聞こえる。何かの始まりの音に、聞こえなくもなかった。

 

春だ。